ほんとのきもち













起きると其処にカイトはいなくて


なんだか妙に疲れている体を持ち上げる。


何で両親が帰って来ただけで、こんなに疲れてるんだろう・・・と
まだ上手く働かない頭を振りながら考えて


ベッドから起き上がると、未だ夏の朝独特の肌寒さが残るものの
陽はすっかりと昇った後だと気付く。

太陽は輝かしい色を落ち着かせて、それなりに高い位置にあった。


気を使って寝かせてくれてたのかな、と思うと、
正直な所、同室の彼に申し訳ないと思わないでもない。


彼自身、自分のせいでこんな事になったと
それなりに気に病んでいるであろうに。


「・・・おはよ、」


寝ぼけ眼を擦りながらリビングに入る。


すっかり寛いでいる様子の母親は
読みかけだった本から顔を上げて「あら、おはよー」なんて笑みを返す。



昔から、この母親の笑みに何度救われていただろうか


そんな事を思いながら、まだまだ真新しい室内を見回せば
いるであろうと思っていた姿がない。


「・・・・・カイトと父さんは・・・・」

「父さんはさっき散歩に行くって、カイト君も一緒に連れてったわよ」

「な・・・・っ」


ケロリと言った母親の言葉に目を見開く。


思考が一気に働き始めて、血液が体中を巡り始めた。


そんな自分の様子に気付いたのだろう
母はクスクスと笑っている。


「そんなに心配しなくても大丈夫よー、」


もう過保護なんだからーと暢気な母親に、「だって!」と返すと
座ったら?と自分の目の前の席を促す。


それと同時に母親は立ち上がって、対面式キッチンへと入っていく。


短い電子音の後に、軽い振動音のする、IHコンロ独特の音。


何かを暖めているらしい音が響く室内に
キッチンに立つ母親の姿が、何だかすごく久しぶりで。


本来なら、其処に立つべきが
この家の中で当たり前であったはずのその人。


キッチン内部の作りは、この家を建てる際に
母親の希望を取り込んで、随分使いやすくなっている。


そんな母親を、父親に付いていく様に勧めたのは、
自分であり兄であるだった。


受験を控えていて精神的に弱っていた自分に、
追い討ちを掛けるかのようなあの父親は精神衛生上良くなく
その時に計ったかのような、父親の昇任異動。


あの父親に家事が出来るわけがない。

それも勿論あったのだが、母親のあの温かさと優しさが
あの時の自分にはどうしようもなく心地よくて、同時にもどかしかった。


それを考慮して、
第三者からの意見も一応聞いたりしながらの決定だった。



追い出したもの、かな。



そんな風に、思いながら



暖かい味噌汁の香りが、リビングにまで流れてくる。


「大丈夫よ、あの人、結構向こうで変わったのよ?」


「・・・・どこが。」


ぶっきら棒な返事に、母親は困ったような笑みを返した。


「寂しがってたんだからー、娘の顔見られなくて。
 何回か電話しようとして諦めて、ってやってたのよ?」


「電話されたってこっちも困るし。」


「それにね、後悔もしてたわよ、あの時の事。」


微かに、自分の体が強張る。


母親も、気付いてはいただろう


けれども何も言わずに、再び短い電子音がすると
ただ静かに、自分の目の前に朝食を置いた。


自分もまた、小さな礼と、「いただきます」の一言で箸を取り上げると
静かに、暖かいそれに口をつけた。


母親が作ってくれたらしいそれは、何だか本当に懐かしくて
少し泣きそうになりながら、空腹を訴え始めた腹に押し込んだ。









無言が、続いていた。


響くのは、時々すれ違う車の音や、人の声

2人が歩く、靴音。


それと、すぐ真横を流れる、川のせせらぎ。


ここに来て、数ヶ月経つけれど、
家から歩いて1時間ちょっとで、こんな川原があったのか、と
カイトは辺りを見渡しながら歩く。


目の前には、彼女の父親だと言う人の背中。


ピンっと張っていて、大きな背中だった。



「カイト君・・・だったか。昨日はすまなかったね。」


「え・・・っあ、いや、えっと・・・・」


あからさまに動揺した様子のカイトに、彼は笑う。


「私も、なにも開口一番
 あんな事を言いたかった訳じゃないんだ。」


そう言った彼は何処か気まずそうに視線を彷徨わせ
そして最終的には、視線は川の流れに落ち着いた。


「ただ、情けないながら
 実際に君たちを前にしたらどうもね・・・」


娘を前に何を肩肘張るのだか分からんのだがね、と
彼は頭を掻いて、やはり笑っていた。


年を重ねて出来た皺が、彼の顔に陰影を付ける。


中でも深く掘り込まれた眉間の皺は、
彼の昔からの気難しさを物語るようだった。


「カイト君は、あの家に着てからどの位になる?」


「え?えーっと・・・・四月の終わり位だから・・・
 もうすぐ5ヶ月になりますかね」



思えば、もう約半年か・・・と
自分自身しみじみと思いながら言うと、彼は低く唸る



「君から見て、はどうかね」

「どう・・・と言うと・・・・」

「その・・・何だ、癇癪持ちだとか、卑屈だとか
 そう思うことは、ないかね」




その父親の言葉に首を傾げながら
首を横に振るカイトに、彼はそうか・・・と遠い目を返した。



「とても良いマスターを持ったと思ってます。
 たまに喧嘩したりしない事もないですけど
 いつも、正面から真っ直ぐに話をしてくれますし」



マスターとして、人として

とても素敵な人だと思います。



ニッコリと言った言葉に、けれども彼はやはり
気まずそうに「そうか・・・」と返事を返すだけで


その言葉に、不思議そうな顔をすれば、
やがて彼は、おもむろに口を開いた。


「娘は・・・は、君の事を随分と信頼しているようだ・・・」

「そう・・・で、しょうか・・・・?」

「ああ。あんな娘の表情、久しぶりに見た気がする。
 ・・・・・私にはあんな笑み、向けた事もない。」



そう言った彼は、少し寂しそうでもあり
そして何処か自嘲的であり


「昔から、あの子は私に怯えたような顔ばかり見せていたよ。
 あの子が生まれたのは、丁度仕事が一番忙しい時期でね、
 育児に構ってやる余裕がなかった」


子供の無邪気さが、あの時は煩わしいだけだった。


だから昔は、旅行はおろか、幼い子なら行きたがるだろう
遊園地やら動物園すら、連れて行ったことがなかった。


仕事だから、仕方ない


そんな大人の事情を、幼い子供が知るはずもなく


『我が侭』な娘に、カッとなって手を挙げる事は
少しと言うでなくあった。


娘が寝てから帰宅し、娘が起きる前に家を出る


そんな生活の中、彼女が日中
どんな活動をしていたのかも知らないが


大人の自分が子供の彼女を叩き付けた、
真っ赤に腫れた頬で幼い友人達と遊ぶ
その姿は、見るに耐えなかった、と、妻からは聞いている。


そんな生活の中でも、健気に
自分の気を引こうとしていた娘は


けれどもいつの間にか
自分に怯えた視線しか寄越さなくなり


彼女が『子供』とも呼べない年になり
自分の仕事が落ち着いた頃には、


何処か、他人でも見るような目になってしまっていた。


そして、その関係に止めを刺したのは


あの日、自分自身だった。



「私はね、一番娘の傍にいなくちゃいけなかった時に
 あの子を突き放したんだよ。」



それも、一番残酷だろう言葉で。



その言葉に、怪訝そうな表情をしたカイトに
けれども、彼はもうそれ以上を語らずに


川の緩やかな流れから、彼の視線が自分へと向けられる。


自然正される姿勢を自分自身自覚しながら、
その瞳を受け止めた。



「・・・・・どうか、あの子に傍に、いてやって下さい。」



言った彼は、深々と頭を下げた。


その事に、カイトは思考回路が停止し
暫く反応できなかったものの



「ちょっ止めて下さい・・・!」



顔上げて!!と慌てて返せば
再び合わせた彼の表情は、何処か切なそうだった。



「君の話が信じられるものかどうかは置いておいて
 けれどもあの子が、君を信頼していることは・・・
 あの子が毎月妻に送っていた手紙からも、分かる。」


だからどうか


傍にいられない自分の代わりにも
あの子の傍に。



そう言う彼の表情に
カイトは昨晩の、父親の様子を思い出す。


笑顔で話していた自分と、


彼が声を掛けたのは


少し、ほんの少しでも良いから


彼女に笑みを向けて欲しかっただけなのだと


そこでようやく、分かって



「お、れ・・・で、良ければ・・・・」



躊躇うように返した返事に
彼はどこかホっとした様子で礼を言ったけれど


切ない関係だなと、思った。